松山中央ライオンズクラブ
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エッセイリレー 少年時代(12月号)

エッセイリレー

「日本が生き生きしていた頃」

盛重二郎

 終戦になって疎開先の大洲(母の里)より、帰松して松山駅に着いた時、駅より新立あたりまで一望でき、形のある建物と云えば、県庁・市役所・日銀・四国銀行位だった様に記憶している。
 翌年、新玉小学校へ入学した時は、校舎はない、教科書もない、服は着たきり雀、履物などなく藁草履が辛うじてあるくらい。食料と云えばもっと悲惨で、栄養源と云えば、学校給食で進駐軍から配られる"脱脂粉乳"とたまに真黒なパン(材料はわからないがドングリパンと呼んでいた)又、家ではトウモロコシを乾燥させて砕いたもの(ニワトリのえさ)を炊いて雑炊状にしたものとか、カボチャを煮たもの、たまに、芋雑炊などが主食だった。おやつなどなく、時々母がカボチャの種を砂糖などないものだから"サッカリン"や"ズルチン"など使って甘味をつけたものを食べていた。
 小学校1年生の時は、教室がないため1年生だけは、丸山墓地まで通っていた。途中農家の友人達と小川でドジョウを捕ったり、又、イナゴを捕ったりで、なかなか学校に辿りつけなかった。勉強などはほとんどしなかった。
 町内には"ボス"がいて(中学2、3年位)ガキを集めてケンカのやり方など教えてくれた。当時は時代が荒れていたせいか、ケンカはよく行われていた。ケンカ道具なども工夫して作った。剣道の鍔(つば)をとがった石の角でこすって、ギザギザにしたものとか、自転車のチェーンを短く切って腰に巻き、いざとなったら"さっと"とりだせる様にしたり、色々工夫したものだ。
 貧しいものだから、子供ながらお金を稼ぐ事を覚え、亥の子の時期には、何人かでグループをつくって各家を亥の子の歌を唄いながら、ついて廻ってお金にした。銅線・アルミ・鉄板など拾い集めて、古鉄屋に売りにいったりもした。
 ある時、"村八分"と云って、町内の子供の中でイジメ的なものがあった。その対象になった事がある。5才上の兄が、2、3才年上の図体のでかい男(中学生)に、馬乗になって殴られているのを見て、只一心に助けなくてはと思い、その男を木刀でなぐって、その隙に兄と家に逃げ帰った事がある。後で父に、えらくほめられて、悦にいった事がある。
 今思えば、貧しいながら、大人も子供も、日本が生き生きと生きていたと思う。
盛重 二郎



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