表紙
【漱石、松山その時代①】
明治二十八年四月九日午後二時頃、漱石は松山へ到着した。百十年前である。
時に漱石二十九歳。
その日、市内三番町にあった城戸屋という旅館に入っている。
東京の高等師範学校の教師の職を突如辞し、愛媛県尋常松山中学校へ英語の
教師として赴任して来た。
漱石が東京を離れた理由は諸説ある。鏡子夫人による失恋説や精神的病気説。
ただ本人は友人に当てた手紙に、洋行のためのお金を貯める目的とも書いて
いる。また幾っかあった就職先に松山を選んだ理由は、学友子規の故郷松山
に多少ならず親しみを感じていたというのが正解ではなかろうか。
ところで、当時東京から松山へは約三日間を要した。
新橋駅から陸路広島へ、そこからは汽船で松山へ、松山の三津浜では港が浅
く汽船が着岸できなかったため、小さな膵が沖の汽船から陸へ客を運んだ。
膵の水夫は裸で赤樺であったと「坊ちゃん」にある。
(表紙絵 青木のりあき/文 山本力雄)