松山中央ライオンズクラブ
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2009年10月

ライオンズの思い出③

Hyoushi

ライオンズの思い出

藤井  滋

 昭和20年8月15日、すでに100余の都市が焦土と化した日本列島を焼きつくすような太陽がジリジリと照りつけていました。
 この日の正午、天皇の玉音放送(玉音は当時の表現)のあることがラジオで予告されており、私は戦友たちと一緒に大分海軍航空隊の駄の原の墜道を出て、狂熱の太陽を浴びながら戦争の終ったことを知らされたのでした。
 私は昭和20年1月20日、大阪に幾度目かの空襲警報を聞きながら家族のごく一部と町内の人たちに見送られ、香取海軍航空隊(千葉県成田空港の近く)に入隊しました。
 新兵教育を受けた香取海軍航空隊で、ある早朝グラマン戦闘機50機余の機銃掃射を受けましたが命拾いをしました。
 それから間もなく豊橋海軍航空隊へ転勤を命ぜられ、到着してみると米軍の空襲によって兵舎は跡かたもなく、しばしばバットで尻を叩かれているうちに、またもや大分へ転勤となり、前述のように終戦を迎えたわけであります。
 この年8月23日に復員し、10月仮住まいの大阪から松山へ。アメリカ海軍による掃海後(当時米軍による瀬戸内海への機雷投下は2000発と云われていた)の別府航路、戦後再開第一船となった“室戸丸”(1250t)に次兄とともに乗船しました。
 当時の新聞によりますと大阪港外4カイリ鳴尾沖で触雷沈没、死者行方不明二百数十名と報道されましたが、別の記録では、乗船者五百名、生存者二十六名とあり、私は4時間余り漂流ののち救助され、兄とはここで生死を分けたのでありました。
 私の叔父の一人はガナルカナルで、もう一人の叔父は満州で現地召集され、それぞれ数年の抑留生活を南方とシベリアで体験し、栄養失調状態で帰還いたしました。
 この程度のことは、当時の我が国の大半の人たちの体験であり、今更とりたてて特筆すべきこととして申し上げるつもりではなく、戦争のもたらす惨禍はすべての人々を犠牲にするということ。これらのことが風化しつつあることを憂うるからに他ありません。
 それはさておき、私がライオンズクラブに入会したのは1971年でしたが、私のスポンサー(故 越智栄一郎氏)から中央ライオンズのクラブ会報を一月たりとも欠刊しないことを心掛けて欲しいと強く云われましたが、その後各メンバーのご努力によって一度も欠刊のないことは中央クラブの誇りのひとつではないでしょうか。今日只今四十余年にわたって欠・休刊のないのは336A地区で当クラブのみではないかと思っております。


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