松山中央ライオンズクラブ
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エッセイリレー

少年時代

兵頭 好喜

 わたしの生まれ育ったところは、想像を絶するような山奥で、旧住所東宇和郡貝吹村(ほら吹き村ではありませんぞ)。奥伊予とも、伊予の奥座敷とも言われている城川町の隣町です。肱川流域はよく霧が発生するのですが、私の生まれたところは、鹿野川ダムより少し野村町寄りの高い山の上で、「朝霧に向こうの山も島となる」とこんな句を詠むほどの山の上でした。今では、合併で大洲市肱川町となっております。
 私の家は、男女合わせて1ダースの子だくさんの大家族で、私は下から2番目。下は妹で、男では一番下。でも兄弟の年齢差があったため、上の方の姉、兄たちが忙しかった親の代わりで、親が何人も居たようでした。当時の兄姉は下の兄弟の面倒をみるのが当たり前の時代だったので、そのことを良いことにわがままの言い放題で、よく困らせたなぁと思います。大家族で貧乏な家庭ではありましたが、食べるものは90%くらい自給自足で食べるものには不自由はしなかったけれど、とにかく家には現金がなく、着るものはお下がり、学用品もほとんどお下がり、新しいものを買っている人がうらやましかったことを思い出します。
 小学校入学前の頃、予防注射や入学の準備等の時などは、学校が遠かったこともあり、親に連れて行ってもらうのですが、母は農作業と大家族の世話で一緒に行けず、学校の側の村役場に勤めていた父に連れられて行きました。用事なんてすぐ終わりましたが、父の仕事の終わるのを一日中待ってないといけないので、退屈をしていると、役場の職員さん達が、気を遣っておぼっちゃま扱いをしてくれるものですから、有頂天になっていました。しかし、小学校に入学する頃には、父が村長になっていたので、入学式であるとか、学校行事がある度に全校生徒の前で父が挨拶をするものですから、後ろからつつかれたり、からかわれたりして、嫌な思いをしたものです。
 当時の村長さんときたら、全くの「損長」さんで、父もご多分に漏れず損長さんでありました。給料もほとんど家に入れず、また村での事業がある度に資材(私財)を寄付したりするので、いつまでたっても貧乏生活から抜け出せませんでした。
 当時は冬には大雪が降っていたので、竹を切って二つに割り、スキーを作って遊んだり、夏は川原に行き(最近東南アジアの貧しい子どもたちが川に飛び込んだり、泳いだりしているシーンがテレビなどで放映されているのを見かけるが、丁度そのような情景)岩の上から飛び込んだり、泳いだり、下級生達を連れて野山を駆け回っていました。変に気が強くて、変なプライドが高い強情張りで、このような性格はこの頃に形成されたように思います。
 でも、兄弟が多かったせいか、戦後のベビーブームで子どもが多く、生存競争が厳しかったのか、人に好かれようとしていたのも事実です。
 私の名前についてですが、女の子が喜ぶ好喜なんてつけて、父はスケベだったのではないか(誰ですか。人のことが言えるの?と笑っているのは)とも最初は思いましたが、名前を付けた意味を聞かず仕舞いでしたので、真意はわかりませんが、好かれて喜ばれて、つまり人に好かれてそこにいるだけで喜びがあふれる人間にとの思いでつけてくれたのではないかと思っております。
 ライオンズの会員さんに好かれて、私が会員であることを皆さんに喜ばれるよう、更に活動に前向きに取り組み、努力していきますので、よろしくお願いいたします。



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